○記号としての永田洋子 ○記号としての永田洋子 かつての連合赤軍のリーダーだった森田恒夫を操り、実質的な実権を握っていたと思われる永田洋子が、先日死刑囚のままに拘置所で死した。脳腫瘍による多臓器不全が死因だったそうな。森田と永田は、セクト内の掟を破ったという理由で、セクトの仲間を、「総括」と云う名のリンチで、次々に抹殺していった。彼らが逮捕された後の報道… トラックバック:0 コメント:0 2011年02月08日 続きを読むread more
○思想家としての武市半平太について想うこと。 ○思想家としての武市半平太について想うこと。 政治的組織論にはかなりの関心があったのに、政治思想のネタは、やはり僕もごたぶんに洩れず、西欧の思想をありがたがる人間の一人に過ぎなかったのか、と今さらながら悔やむことしきり。どうしようもないな。70年安保闘争の真っ只中にいながらも、日本には、反体制的革命運動家としての、幕末から明治維新… トラックバック:0 コメント:0 2011年01月20日 続きを読むread more
○歴史が証明する?ウソっぱちだった、と思う。 ○歴史が証明する?ウソっぱちだった、と思う。 唯物史観の悪しき側面は、自分のなした言動に対する合理化に、ほんとうのところはなんの根拠もないのに、<歴史の必然>とやらの理屈を持ち出してくることである。無神論のくせに、唯物史観は、まるで神のごとき存在になる矛盾が分かっているのやら、分かっていて、確信犯的に使っているのやら。僕もかつては… トラックバック:0 コメント:0 2010年12月05日 続きを読むread more
○人はどこまで信じ得るか? ○人はどこまで信じ得るか? こういう設問を立ててみたのは、この世界に長年生きてきて、果たして自分には、信じるべき人間が存在するのかどうかという根源的な問題に捉われているからに他ならない。あるいは、逆に、自分という人間は、他者に、数はどうでもよいのだが、信じられる存在であり得るのだろうか、という深い疑念のごときものが、自分を突き動か… トラックバック:0 コメント:0 2010年12月03日 続きを読むread more
○タラタラと生きるよりは・・・・・ ○タラタラと生きるよりは・・・・・ テレビドラマの「龍馬伝」に対する批判が郷土史家たちの間にあるらしい。史実を曲解している諸点があることに憤っていると聞く。また、朝日新聞に、土佐出身の医師が、龍馬待望論が湧いてくるような精神性が危ないのだ、と厳しい意見を述べてもいた。この種の批判は、当然あってしかるべきだろうし、それを言下に否定す… トラックバック:0 コメント:0 2010年11月21日 続きを読むread more
○歴史は創られる。 ○歴史は創られる。 いま、僕たちが歴史として認識しているそれは、人類にとっての極細部に於ける人間の営みの記述に過ぎないものだろう。ときとして、僕たちは歴史的記述というものを絶対視することがあるが、そもそも人間の営みのすべてを詳細に記述することなどまったく不可能なことであり、その意味で、僕たちが認識している年代ごとの史実などは、現代… トラックバック:0 コメント:0 2010年09月11日 続きを読むread more