○寂しくてたまらない~!
○寂しくてたまらない~!
僕が青年だった頃、フォークソング流行りで、時代も揺れに揺れていて、学生運動もとりわけ具体的な目標もなく、マイクに向かって大人たちの創った社会になんぞ、はまってやるものか! という抗いが、アメリカ帝国主義撲滅などという空恐ろしい言葉になってはいたが、その実情は、おそらくはただ自分の未来に対する不安や怖さや苛立ちのような感覚が支配的であり、そういう風潮の中でフォークソングにはやはり青年たちがこれから立ち向かおうとする時代や若さを謳歌するためのメッセージが込められていた、と思う。
フォーククルセダーズなんていうフォークソンググループが大流行りした。他にも数えきれないほどのフォークソンググループがいたが、フォーククルセダーズの曲は歌詞も直截的で、メッセージとしては非常に分かりやすかったのである。オセンチで、寂しがり屋で、一人でいるとどうしようもなく孤独になり、叫び出したいような青年特有の衝動を、彼らは器用に歌に乗せて多くの若者の共通感覚を、ある種普遍的な言葉にしてくれた、と記憶している。とても簡単な歌詞がいまだに頭の中を流れて過ぎ去っていくことがある。「寂しくて、寂しくて、とてもやりきれ~ない・・・」という調子の、単純極まりない表現の拙さが、かえってその頃の青年たちの心を捉えていたように思う。「哀しくて、哀しくて、とてもやりきれ~ない・・・・」とも歌っていたように思うし、また「侘しくて、侘しくて、とてもやりきれ~ない・・・・」とも歌っていたようにも思う。
考えてみれば、人間、生きている限りにおいて、寂しさも哀しさも侘しさも、年齢に応じたかたちで、一人一人が抱え持ちながら生きているのだ、と痛感させられるこの頃である。歳をとれば、そんな感情にも何らかの成熟があるのか? と漠然と思っていたが、どうもそうではないらしい。青年の抱く寂しさや哀しさや侘しさと、たとえば人生の晩年期に入った僕との距離感は、殆どないように思う。違いがあるとすれば、各々が抱えている素材の違いに過ぎないのであって、植物のタネが熟成して果実を生み出すようには、人間の感情においては案外進歩がないようなのである。一般化するのはどうかと思うが、まず僕という人間の生きざまを振り返ってみれば、青年の頃とそれほどの大差はない。新聞の経済欄などを何気なく眺めていると、僕などより歳下の人々がどこそこの社長になったり、会長になったりしている。そんな立場に立たされたら、まさか多くの部下の前でオセンチなことも言っていられないだろうから、かなり重いお荷物を背負って生きておられるのだなあ、と感嘆してしまう。そうは言ってもそういう人たちも一皮、あるいは二皮、三皮くらい剥いてやると心の底には同じような感情があるようにも思う。ここのところは僕のような無責任な立場の人間が彼らの代弁をしておくのも必要なのかも知れないような気がするのである。
仕事をバリバリとやって毎日を生き抜いていくような人々にもいずれは、僕がいま書いているような心境に立ち至るときがやって来るだろう。そのとき、やはり人は、真摯に寂しくてたまらない~、哀しくてたまらない~、侘しくてたまらない~、と言えるといいなあ、と僕は思う。何も死ぬまでええかっこせんでもいいやないか、とも言いたい。人生の総括にいつから手をつけるのか? は人によって異なるのは当然だ。が、いずれにせよ、新興宗教のような安逸な生の永遠性を求めたり、スピリチャリズムのような、生まれ変わりや、輪廻転生を考えたくなる気分は分かるが、やはりそれらは、いずれも生にまつわる寂しさや哀しさや侘しさというものの存在の意味をよく考えもしないで、一気に生の再生を願望するようなものでしかない。どう控えめに見ても安易としか言いようがないではないか。生が一回限りの存在である、という覚悟があってこその人生の総括ではないか。またその過程でこそ得られるかも知れない生の真実ではないのだろうか? 生は一回性であるからこそ、生きた意味が在る、と僕はいま思っているのである。それとも、何度も生まれ変わりたいのだろうか? 随分と人間にとって、手前勝手な考え方ではないか? そう僕は思う。
○推薦図書「愛の論理」 飯田史彦著。PHP文庫。この著者はスピリチャリズムをその本質に持っている人ですが、この書に関しては、生きることに迷った人々がどのように他者を愛すれば生きた、と言えるのか、という問題をかなり具象的に書ききっています。飯田史彦の他の著書は、僕が読んだ限りにおいてはあまりお薦めできませんが、この書は、よく書けていると思います。今回の推薦の書としておきます。
京都カウンセリングルームhttp://www.counselor-nagano.jp/
アラカルト京都カウンセリングルームhttp://www.sodan119.jp/ 長野安晃
僕が青年だった頃、フォークソング流行りで、時代も揺れに揺れていて、学生運動もとりわけ具体的な目標もなく、マイクに向かって大人たちの創った社会になんぞ、はまってやるものか! という抗いが、アメリカ帝国主義撲滅などという空恐ろしい言葉になってはいたが、その実情は、おそらくはただ自分の未来に対する不安や怖さや苛立ちのような感覚が支配的であり、そういう風潮の中でフォークソングにはやはり青年たちがこれから立ち向かおうとする時代や若さを謳歌するためのメッセージが込められていた、と思う。
フォーククルセダーズなんていうフォークソンググループが大流行りした。他にも数えきれないほどのフォークソンググループがいたが、フォーククルセダーズの曲は歌詞も直截的で、メッセージとしては非常に分かりやすかったのである。オセンチで、寂しがり屋で、一人でいるとどうしようもなく孤独になり、叫び出したいような青年特有の衝動を、彼らは器用に歌に乗せて多くの若者の共通感覚を、ある種普遍的な言葉にしてくれた、と記憶している。とても簡単な歌詞がいまだに頭の中を流れて過ぎ去っていくことがある。「寂しくて、寂しくて、とてもやりきれ~ない・・・」という調子の、単純極まりない表現の拙さが、かえってその頃の青年たちの心を捉えていたように思う。「哀しくて、哀しくて、とてもやりきれ~ない・・・・」とも歌っていたように思うし、また「侘しくて、侘しくて、とてもやりきれ~ない・・・・」とも歌っていたようにも思う。
考えてみれば、人間、生きている限りにおいて、寂しさも哀しさも侘しさも、年齢に応じたかたちで、一人一人が抱え持ちながら生きているのだ、と痛感させられるこの頃である。歳をとれば、そんな感情にも何らかの成熟があるのか? と漠然と思っていたが、どうもそうではないらしい。青年の抱く寂しさや哀しさや侘しさと、たとえば人生の晩年期に入った僕との距離感は、殆どないように思う。違いがあるとすれば、各々が抱えている素材の違いに過ぎないのであって、植物のタネが熟成して果実を生み出すようには、人間の感情においては案外進歩がないようなのである。一般化するのはどうかと思うが、まず僕という人間の生きざまを振り返ってみれば、青年の頃とそれほどの大差はない。新聞の経済欄などを何気なく眺めていると、僕などより歳下の人々がどこそこの社長になったり、会長になったりしている。そんな立場に立たされたら、まさか多くの部下の前でオセンチなことも言っていられないだろうから、かなり重いお荷物を背負って生きておられるのだなあ、と感嘆してしまう。そうは言ってもそういう人たちも一皮、あるいは二皮、三皮くらい剥いてやると心の底には同じような感情があるようにも思う。ここのところは僕のような無責任な立場の人間が彼らの代弁をしておくのも必要なのかも知れないような気がするのである。
仕事をバリバリとやって毎日を生き抜いていくような人々にもいずれは、僕がいま書いているような心境に立ち至るときがやって来るだろう。そのとき、やはり人は、真摯に寂しくてたまらない~、哀しくてたまらない~、侘しくてたまらない~、と言えるといいなあ、と僕は思う。何も死ぬまでええかっこせんでもいいやないか、とも言いたい。人生の総括にいつから手をつけるのか? は人によって異なるのは当然だ。が、いずれにせよ、新興宗教のような安逸な生の永遠性を求めたり、スピリチャリズムのような、生まれ変わりや、輪廻転生を考えたくなる気分は分かるが、やはりそれらは、いずれも生にまつわる寂しさや哀しさや侘しさというものの存在の意味をよく考えもしないで、一気に生の再生を願望するようなものでしかない。どう控えめに見ても安易としか言いようがないではないか。生が一回限りの存在である、という覚悟があってこその人生の総括ではないか。またその過程でこそ得られるかも知れない生の真実ではないのだろうか? 生は一回性であるからこそ、生きた意味が在る、と僕はいま思っているのである。それとも、何度も生まれ変わりたいのだろうか? 随分と人間にとって、手前勝手な考え方ではないか? そう僕は思う。
○推薦図書「愛の論理」 飯田史彦著。PHP文庫。この著者はスピリチャリズムをその本質に持っている人ですが、この書に関しては、生きることに迷った人々がどのように他者を愛すれば生きた、と言えるのか、という問題をかなり具象的に書ききっています。飯田史彦の他の著書は、僕が読んだ限りにおいてはあまりお薦めできませんが、この書は、よく書けていると思います。今回の推薦の書としておきます。
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