○教師失格、しかし僕は教師であり続けた、と思う
○教師失格、しかし僕は教師であり続けた、と思う
人生の大半を英語教師という仕事に費やした。ここに費やした23年間は、僕にとっては、心を抉られる自己評価しか下し得ないものである。自分が精力を傾けて仲間? と伴にやってきた数々の教 育改革が、うまく機能している、と思い込んでいた。教師の世界も、何かの変革を促すのであれば、それなりの大儀名文が不可欠である。この大義名分を教育実践プランとして考案し、文章化し、 議論の場でその意味が分からない連中の反論や低次元の反発を論破しなくてはならない。誰よりも物分かりの悪い連中は管理職だった。だから企画立案者であった僕はいつも管理職とぶつかる宿命的な任務を背負っていた、と思う。その頃、僕はかなり単純に、の役割りを引き受けることが出来るのは自分なのだ、と己れに言い聞かせてきたフシがある。何人もの仲間? である人々は、反対者や、物分かりの悪い管理職者たちを説得した結果の、新たな実践に参加し、まるで苦しい議論の果ての成果を忘却し、それらをまるで自然が与えた果実ででもあるかのように享受した。 僕は心の隅に巣くった不信感を自ら隠蔽し、賛同者? である彼らをまごうかたなき僕の支持者である、と思い込もうとしていたようである。その意味において、自分のなすべきことに、如何なる矛盾をも感じ取ろうとはしなかったのである。
だからこそ、僕は淡々と、他者からはかなりの反発を食らう仕事をこなしてきたのである。少しでも生徒たちが生き生きとした学校生活をおくれるような施策を、備わってもいない知恵を頭を逆さに振るようにして絞り出した。その結果は、十分に満足のいくものであったし、僕の教育実践の底にある思想性について、賛同者? の多くが理解してくれているはずだ、と勝手に思い込んだ。またそう思わなければ、いつもつらい局面に立たされるのである。数多くの反対者には憎まれるし、管理職の覚えもよろしくはない。針の蓆だ。それがたとえ虚しい錯誤であれ、その錯誤ですら信じなければ、自分の神経がもたなかった。たぶん僕が仲間? に対して思想的に最も重い課題を課したことの最大の問題は、宗教法人の支配する学校を学校法人として独立させるという試みであった。この課題は教育の日常的な課題を遙に超える思想的な挑戦であった。
多くの人々は表層的には賛同した。いや、せざるを得なかった、と表現する方が適切なのかも知れない。その中にはかなりの数の革新政党? であるはずの、共産党員の教師たちも混じっていた。しかし、僕は常に仲間? の、言葉と行動との乖離に苦しんだ。学校法人を宗教法人から解放させるということの実践的な行為は、当然宗教行事の意識的な否定だろう、と思う。僕は実践者として、宗教行事への協力と参加を拒否した。しかし、僕以外の誰一人として、宗教行事の生徒への押しつけを、何の抵抗もなく受け入れた。いや、むしろ積極的に加担したのである。学校法人の、宗教法人からの解放を主張するのであれば、少なくとも生徒の宗教的行事への参加は自由参加であるべきだろう。とりわけ、そのことに意識的でなければならない、教師存在は、生徒の前において、自分たちが主張している言葉を実践できないとするならば、そのことはすなわち生徒という、一個の人間を受容することなどできはしないことの証左ではないか。
しかし、彼らは学校空間において平気で生徒の前で信じてもいない仏壇に向かって手を合わせ、日頃の言葉とは裏腹に、自己矛盾するはずの行動をやってのけたのである。彼らにそのような行動をとらせてしまうのは一体何が原因であるのか? 僕は苦悩して考えた。教師という安穏とした生活を守るためなら、自らの言動の矛盾すら許容することができるのだろうか? と。考えることの苦手な教師たちも確かにる。その人たちにとっては、職場の習慣性という流れの中に身を浸しておくことの方が自然だったのかも知れない。が、僕が許せなかったのは、学校を牛耳っているつもりでいる共産党員の教師たちである。ある特定の政党に所属する人間の思想の限界とは、所属政党に対する抗いさえしなければ、自分が進歩的であることをきどれる思考回路を維持しているという錯誤に陥っても、それとは気づかないことである。その意味で、僕は彼らを激しく憎悪した。
大宗教法人である西本願寺の悪徳な僧侶たちが、僕に対して牙を剥いたとき、僕の周りには誰一人賛同者などいなかった。誰もが僕を避けた。とりわけ僕を回避して憚らなかった連中が、進歩的なることを装う共産党員たちだった。勝てるはずのない闘いに挑んだのである。いつかは敗北する覚悟でいたが、まさかクラス担任としてクラスがやっと軌道に乗りかけた6月20日という梅雨の季節に、学校を追放されるとは思ってもみなかった。僕の甘さであった、といまは思う。同時に、いまとなっては、僕の周縁から去っていった人々に対して、かつてのような憎悪のかけらも残ってはいない。すべてが僕自身が招いた問題なのである。
僕はかつての極左暴力セクト上がりの過激な思想を、自由主義的なオブラートに包んで思想化していたに過ぎない。賛同者に見えた人々に対しても、結局は力業を使い、自分の思想で押しつぶしただけなのである。僕の原型はあくまで暴力主義的だったのである。そんな人間に誰が賛同などするものか。いまは冷静にそう思う。僕は他者に裏切られたのではない。自分の傲慢さに負けたのである。他者を大切に思えない力業だけの理論に、人の心を揺り動かす力などない。僕はその意味においても、教育者として失格者だった、と思う。いったい、自分は23年もの間、本当の救いを求めている人々のために何かをなし得たのか? 答えは否、である。たぶん追放されるべき人間だったのだ、とも思うが、ただ、一つだけ自己正当化させてもらえるならば、僕は自分に対してはあくまで正直だった、と思う。それが他者のためになり得なかったのは、僕自身の受容力の欠落感ゆえの問題だ、とは思う。しかし、結論的に言えば、他者を愛せない教育者など、教育現場には不必要なのである。それが僕自身の、教師であった頃の、総括である。いま、カウンセラーとして、他者を受容し得る人間であり続けたい、と思っている。それがいまの僕自身の覚悟である。今日の観想となり得ているであろうか?
○推薦図書はありません。僕自身の人生の重要な総括です。お暇があればお読みください。
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アラカルト京都カウンセリングルームhttp://www.sodan119.jp/ 長野安晃
人生の大半を英語教師という仕事に費やした。ここに費やした23年間は、僕にとっては、心を抉られる自己評価しか下し得ないものである。自分が精力を傾けて仲間? と伴にやってきた数々の教 育改革が、うまく機能している、と思い込んでいた。教師の世界も、何かの変革を促すのであれば、それなりの大儀名文が不可欠である。この大義名分を教育実践プランとして考案し、文章化し、 議論の場でその意味が分からない連中の反論や低次元の反発を論破しなくてはならない。誰よりも物分かりの悪い連中は管理職だった。だから企画立案者であった僕はいつも管理職とぶつかる宿命的な任務を背負っていた、と思う。その頃、僕はかなり単純に、の役割りを引き受けることが出来るのは自分なのだ、と己れに言い聞かせてきたフシがある。何人もの仲間? である人々は、反対者や、物分かりの悪い管理職者たちを説得した結果の、新たな実践に参加し、まるで苦しい議論の果ての成果を忘却し、それらをまるで自然が与えた果実ででもあるかのように享受した。 僕は心の隅に巣くった不信感を自ら隠蔽し、賛同者? である彼らをまごうかたなき僕の支持者である、と思い込もうとしていたようである。その意味において、自分のなすべきことに、如何なる矛盾をも感じ取ろうとはしなかったのである。
だからこそ、僕は淡々と、他者からはかなりの反発を食らう仕事をこなしてきたのである。少しでも生徒たちが生き生きとした学校生活をおくれるような施策を、備わってもいない知恵を頭を逆さに振るようにして絞り出した。その結果は、十分に満足のいくものであったし、僕の教育実践の底にある思想性について、賛同者? の多くが理解してくれているはずだ、と勝手に思い込んだ。またそう思わなければ、いつもつらい局面に立たされるのである。数多くの反対者には憎まれるし、管理職の覚えもよろしくはない。針の蓆だ。それがたとえ虚しい錯誤であれ、その錯誤ですら信じなければ、自分の神経がもたなかった。たぶん僕が仲間? に対して思想的に最も重い課題を課したことの最大の問題は、宗教法人の支配する学校を学校法人として独立させるという試みであった。この課題は教育の日常的な課題を遙に超える思想的な挑戦であった。
多くの人々は表層的には賛同した。いや、せざるを得なかった、と表現する方が適切なのかも知れない。その中にはかなりの数の革新政党? であるはずの、共産党員の教師たちも混じっていた。しかし、僕は常に仲間? の、言葉と行動との乖離に苦しんだ。学校法人を宗教法人から解放させるということの実践的な行為は、当然宗教行事の意識的な否定だろう、と思う。僕は実践者として、宗教行事への協力と参加を拒否した。しかし、僕以外の誰一人として、宗教行事の生徒への押しつけを、何の抵抗もなく受け入れた。いや、むしろ積極的に加担したのである。学校法人の、宗教法人からの解放を主張するのであれば、少なくとも生徒の宗教的行事への参加は自由参加であるべきだろう。とりわけ、そのことに意識的でなければならない、教師存在は、生徒の前において、自分たちが主張している言葉を実践できないとするならば、そのことはすなわち生徒という、一個の人間を受容することなどできはしないことの証左ではないか。
しかし、彼らは学校空間において平気で生徒の前で信じてもいない仏壇に向かって手を合わせ、日頃の言葉とは裏腹に、自己矛盾するはずの行動をやってのけたのである。彼らにそのような行動をとらせてしまうのは一体何が原因であるのか? 僕は苦悩して考えた。教師という安穏とした生活を守るためなら、自らの言動の矛盾すら許容することができるのだろうか? と。考えることの苦手な教師たちも確かにる。その人たちにとっては、職場の習慣性という流れの中に身を浸しておくことの方が自然だったのかも知れない。が、僕が許せなかったのは、学校を牛耳っているつもりでいる共産党員の教師たちである。ある特定の政党に所属する人間の思想の限界とは、所属政党に対する抗いさえしなければ、自分が進歩的であることをきどれる思考回路を維持しているという錯誤に陥っても、それとは気づかないことである。その意味で、僕は彼らを激しく憎悪した。
大宗教法人である西本願寺の悪徳な僧侶たちが、僕に対して牙を剥いたとき、僕の周りには誰一人賛同者などいなかった。誰もが僕を避けた。とりわけ僕を回避して憚らなかった連中が、進歩的なることを装う共産党員たちだった。勝てるはずのない闘いに挑んだのである。いつかは敗北する覚悟でいたが、まさかクラス担任としてクラスがやっと軌道に乗りかけた6月20日という梅雨の季節に、学校を追放されるとは思ってもみなかった。僕の甘さであった、といまは思う。同時に、いまとなっては、僕の周縁から去っていった人々に対して、かつてのような憎悪のかけらも残ってはいない。すべてが僕自身が招いた問題なのである。
僕はかつての極左暴力セクト上がりの過激な思想を、自由主義的なオブラートに包んで思想化していたに過ぎない。賛同者に見えた人々に対しても、結局は力業を使い、自分の思想で押しつぶしただけなのである。僕の原型はあくまで暴力主義的だったのである。そんな人間に誰が賛同などするものか。いまは冷静にそう思う。僕は他者に裏切られたのではない。自分の傲慢さに負けたのである。他者を大切に思えない力業だけの理論に、人の心を揺り動かす力などない。僕はその意味においても、教育者として失格者だった、と思う。いったい、自分は23年もの間、本当の救いを求めている人々のために何かをなし得たのか? 答えは否、である。たぶん追放されるべき人間だったのだ、とも思うが、ただ、一つだけ自己正当化させてもらえるならば、僕は自分に対してはあくまで正直だった、と思う。それが他者のためになり得なかったのは、僕自身の受容力の欠落感ゆえの問題だ、とは思う。しかし、結論的に言えば、他者を愛せない教育者など、教育現場には不必要なのである。それが僕自身の、教師であった頃の、総括である。いま、カウンセラーとして、他者を受容し得る人間であり続けたい、と思っている。それがいまの僕自身の覚悟である。今日の観想となり得ているであろうか?
○推薦図書はありません。僕自身の人生の重要な総括です。お暇があればお読みください。
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